お前の料理は、もう古い

《お前の料理は、もう古い・・・》

それはまるで、呪文のように
脳内で繰り返されます。

ひとつの世界に長く居ると、いつの間にか
新しい視点を持てなくなってきます。

でも何が古臭いのかは、よく分かります。

逆に自分が、今まで殆ど知らなかった世界に入っていくと、その世界の人が見過ごしている事に瞬時にアクセスすることが出来たりします。

その世界に染まっていない無垢なココロは、
時にして新しい視点や概念を見つける事を
可能にしてくれます。

例えば、外国人が日本固有の食材を違和感なくフレンチに落とし込む思考であったり、

例えば、外から来たシェフが北海道でイヴェントをやった時、象徴的な北海道の大自然を美しく表現するアイデアであったり…

僕はそれらを実際に目の当たりにしてハッとし、時に愕然としたのです。

それは、日本に居続けることで日本固有の素材に対して固定観念があまりに強くなりすぎていたり…

あまりに身近過ぎて、生まれ育った北海道の魅力や印象を客観視出来ていなかったり・・・

様々な要因がそこには在るのです。

自分は自分の世界の中で、もう一度無垢な精神を持つことが出来るだろうか?

当然それは難しく、長年その世界に居ることで強くバイアスがかかっており、

客観的な視点で物事を見ようとしても、僕の脳は既に古臭い常識や法則に支配されているのだと気づきます。

常に新しいものを生み出さないといけない
という義務感以上に、

常に新しい作品を創り出したいという欲求は、
切れ間なく続き、

同時にどんどんと自分を追い込んでいきます。

あ!これはどうだろう? 
いや、これは誰かがやっている・・・

じゃコレはどうだ? 
いやいや、全然よくない・・・

色々な経験を積み、色々なものを沢山見て、
知って、食べて、日々溢れんばかりの情報が
入っているのに、逆に全てが邪魔をして、

何を作っても《新しい》という感動が自分の中で生まれてこない。

全ては、過去の焼きまわし。

《お前の料理は、もう古い・・・》

また、呪文が聞こえてくる。

あぁ・・古いんだな・・。

誰かの言葉、誰かの評価なんてどうでもいい。

僕が欲しいのは、まさに今の自分が感動できるナニカであって、きっとそれは、僕すらもまだ気づいていない新しい視点。

自分の中で最も大切にしてきたのは、
発想する力であって、
その発想力が古びてきたなら、もう終わり。

誰かに最後を告げられるより前に、
誰よりも僕が僕を一番に見捨てるだろう。

この状況は、誰にでも死が訪れることと同じであって、どれほどあがいても逃れることは絶対に出来ないと思うのです。

感性はいつか古くなり、そして、新しい感性が次の世代から生まれてくる。

古くなってしまった自分が清々しい想いで最後を送る唯一の手段は、

自分の現実を受け止めながら、
その《新しい感性》を発信する次の世代に

最大限の敬意を払い、
そこから多くを学ぶことだと思うのです。

そして、難しいとは分っていても、

僕はもう一度、無垢な精神を取り戻したいと
いつも願っているのです。

見捨てるのも自分自身、

自分の感性を信じ続けてあげれるのも、

自分自身なのかもしれません。

僕に出来ること

自分に何が出来るのだろうか?

きっと、はじまりはこんな感じだった。

最初の職場で自分に出来たことと言えば、
ごみ捨て、鍋洗い・・・
何も出来ない自分は、ただただ無力な存在だった。

そんな日々が3年過ぎる前に、僕はひとりフランスへと渡った。

きっと、そこにはナニカが在って、その新しい世界の中で、
僕は、足りないナニカを見つけることが出来るのではないか?

漠然とそう思う自分と現実から逃げ出した自分がそこに同居しながら、
仕事もなく、ただ考え事をするだけの毎日が暫く続いた。

22歳の自分。

その頃、自分に何が出来るか?を必死に探していたけど、
何もない毎日は、何も見つけることも出来ず、何もないという
事実を現実として知るだけだった。

自分に何が出来るのだろうか?

帰国して、また料理の仕事を始めた。

結婚し、子供もできた。

少しだけ、ナニカが出来るような・・・
ナニカが出来ている・・ような。
そんな頃だったかもしれない。

職場を変えた。

24歳になった自分は、新しい環境で仕事に夢中になった。

一度、料理を辞め、料理人には向いていないと思っていたのに、
僕は、仕事に夢中になったいたし、何でもやろうと思っていた。

役立たずで何も出来なかった自分を乗り越えられたような、
そんな錯覚をしていた頃かもしれない。

若者には、可能性がある・・と言うが、果たしてホントだろうか?

確かに選択肢は、多いかもしれないし気力も体力もある。

だけど、術を持たない若さだけが取り柄の人間に一体ナニが出来るのだろう?

気づけば30を過ぎ、独立。

そして、40を過ぎ、今、50歳が目前となった。

19歳で社会に出て、30年が過ぎようとしている。

僕に何が出来たのだろうか?

なんでも出来る・・・そう信じたこともない自分は、
結局、料理だけは出来るようになり、それが生活を支え、
そして、人生を支えている。

僕が若い頃、なんでも出来る、自分には可能性がある・・
もし、そんな風に思えたなら、ナニカ変わったのだろうか?

僕には、はじめから何もない。

でも、なんかひとつでいい。

なんかひとつ出来ることがあったら、もしかしたら
自分と他人を幸福にする術になるかもしれない。

30年、自分なりに必死で、そして、なんとなく・・
この道を進んで、今思うのは、そんなことだろうか?

自分に出来ることをひとつだけ見つけた。

それぐらいの人生。

その本当の価値にいつか気づけるような気がしている・・・

炎芸術

2020年。15年の時を経て、僕はひとつの扉を開こうとしている。

“その向こう側には、一体何があるのだろう?”

好奇心と探求心、

新しい冒険。

美食とは何か?

芸術とは何か?

その全ては、この15年間僕が毎日考え続けてきたことであるし、

もっと言えば、僕が19歳でこの世界に入ってから、

ひたすらに考え続け、そして、その度に打ちのめられ続けたことかもしれない。

一向に、出口は見えず、

扉の前にすら立つことが出来なかった。

フランス料理とは何か?を考え、

料理とは何か?を考え、

そして、最も重要な問いは、

僕にとって、表現とは何か?という問いだ。

・・・

料理でメシを喰う為に、僕はソレに専念せざるを得なかった・・・

料理と向き合おうとすればするほどに、

ソレは、僕から遠ざかっていくように感じた。

そして、僕は封印していた絵画をはじめ、

陶芸の世界にも足を踏み入れた。

僕の中で、全てのツールは重なり、

そこには、ただ・・自分自身の姿が在った。

そう、これでいいんだ。

全てのものが、僕の手元に在る。

遠ざけることもなく、

近づけることもなく、

僕の日常の中に在るものとなった。

僕が強く興味を示し、

心打たれるもの・・・

色であれ、造形であれ、味であれ、

何であれ、

そこに求めるものは、

自然と人間が精神的な繋がりを見せる、

一瞬の表情なのではないか?

パレットの上で原色同士が混ざり合う・・その手前を、

ナイフでそっとキャンバスになぞることで生まれる景色。

自然に曲線を描いた土が魅せる造形。

窯の中で鉱物が溶け合い、発色し、生み出す色彩。

天然の食材が様々なエネルギーによって、新しい命が吹き込まれ、

香りと味わいに変化し、出逢うはずの無かったものとの出会いにより、

新たな表情を浮かべる瞬間。

僕の中では、全ての感動は、同一線上に在る。

表現のスタイルに特定の制約を設けることは主義ではない。

油彩で厚塗りもすれば、敢えて水彩のような表情の画面も創る。

磁器で無機質なエッジの効いた造形も作れば、

素朴な素材で、ざっくりとした土味のある表現もする。

ただ、料理においては少しだけ違う。

30年という時間がそうさせているのだろうか?

僕が見たいもの、作りたいものの“今”は、

薪火による変化なのかもしれない。

当然、今がそうであるからといって、

この先が、どうであるかは分からない。

ここで少しだけ薪火の話をすると、

薪火とは、蒸気を伴った炎である。

そして、中間地点では炭同様の熱量を発し、

終点間際で非常に柔らかな熱源となる。

着火時から終焉までの時間経過の中で、

様々な状態変化が起き、それぞれの特徴と熱量がある熱源である。

また、薪の種類や木の部位によっても特徴が変わる。

油分が多い木、木質が柔らかいもの、目が詰まって硬いもの。

当然、出る炎の大きさ、長さ、熱量も違う。

それらを総合して言えることは、料理で使用する熱源の中で、

最も“不安定”であるということだ。

様々な“ムラ”を抱え、不均一な状態を備えているのが薪火である。

何も考えず、ただ雰囲気だけで使用している料理人も多いのも頷ける。

何故、頷けるかというと、それだけ“なんとなく美味しそう”という

幻想を抱かせるだけの力が薪火にはあるからだろう。

ただ、僕が30年料理に携わり、今、この熱源に手を出すのには、

それなりの“ワケ”がある。

それは、表現の根本の中に眠る“本能”を突き動かすことができる熱源だと感じたからだ。

あのメラメラと焚き付き、大きな炎を上げ、

大きな音を立てて、どんどんと周りの物質を飲み込んでいく姿は、

まるで生き物のように恐ろしい。

その後、ピークを迎えた薪は、

ジッと静かに、その熱エネルギーを放出する・・・

・・・

では、炭ではダメなのか?という疑問を感じる人もいるだろう。

当然、炭は素晴らしい。

逆に言えば、素晴らし過ぎる・・・

優等生の炭に比べ、薪は出来が悪い・・・まるで子供の頃の自分を見ているようだ。

出来の良い炭には、当然需要が沢山あるし、安定感や使い勝手、温度の高さ、

何を比べても、炭には敵わない。

もしかしたら、だからコソ薪に惹かれるのかもしれない。

僕は、不安定で不均一なものに惹かれる主義。

優秀なものは、そのままで優秀なのです。

北海道という田舎で、その土地の薪を使い、

僕は、そこに在る素材を料理に変える。

ただの火が、ただの火ではなくなる。

原始時代の人類が初めて発見し、体験した調理法。

まさに“炎芸術”である。

薪火とは、

薪美であって、

炎が付き動かすものの中に、

太古の人類の本能が眠っているように思うのです。

聖戦

“僕らの戦いは、初めから始まっている”

目に見える敵。

目に見えない敵。

その敵の目的とは一体なにか?

何のことはない。

ただ、彼らも生き残るということに必死なだけなんだ。

・・・

我々は、すぐに善と悪を生み出そうとする。

そして、敵と味方に分けたがる。

だけど、本当は、そこに敵も味方も善も悪もない。

そこに在るものは、ただ、

“生き残る”という生命のミッションだと思う。

・・・

ここ数ヶ月、世界はコロナウイルス一色となった。

この先、何百年も先までも、このウイルスが巻き起こした騒動が

歴史の中で語り継がれるだろう。

しかし、我々人類と細菌やウイルスとの闘いは、

ある種、宿命のようなものであり、

この世界で生きる限り、人類を含め、

ありとあらゆる生命体が、

隣り合う生物と生存競争をすることは宿命付けられている。

実社会において、同業者がしのぎを削るって

生き残りをかけて戦っているのと

全く同じことだ。

パイは、限られている・・・ということだ。

生命体は、地球という規模で生き残りをかけた

椅子取りゲームを数億年の間、ずっと繰り広げている。

それが自然の摂理である。

自然淘汰の繰り返しの先に、

進化が生まれ、

我々も今、ここに存在している。

・・・

物事を考える時に、

僕は、こうした大局的なことをまず考えた上で、

現実的なことを考える。

目先の問題ばかりを解決したところで、

本質的な問題が解決しないからだ。

今回のコロナの問題も、

大局的なことをまず考えるが、

理想論ばかりを口にしたところで、日々の暮らしが改善されるわけではない。

目の前にある問題をひとつひとつクリアしない限り、毎日のメシは喰えない。

ただ、ひとつ言えることは、

コロナによって、世界は少し変わったかもしれないが、

本質的には何も変っていないように思う。

別の言い方をすれば、

常に、自然とはカタチを変えて進むものであるし、

そこに付随して、現実世界も同様に常に変化している。

要するに、コロナによって

変ったわけではなく、それは常に起きている変化の一要因に過ぎない。

・・・

果たして、我々は、この問題が起きて、

初めて何かを考え、行動し、

先の分からない未来を危惧し始めたのだろうか?

いや、我々は、生まれた時から既に戦ってきた。

生きる事とは、毎日が何かとの戦いだ。

コロナであろうがなかろうが、

生き残る為に必死のなのは、何も変わらない。

災害は、きっかけでしかない。

自然界に身を置く以上、

ありとあらゆる自然災害は、

受け入れないといけない。

それが、ルールであり、

自然の営みそのものだ。

我々、人間が暮らす実社会というのは、一体何か?

それは、カタチを変えた【ジャングル】となんら変わりない。

弱肉強食のサバイバルに決まっている。

・・・

《何事もなく平穏な毎日・・・》

こんなよく聞くフレーズを何かで読んだことも

聞いたことも、そして、ごく稀に自分で使ったりもするが、

実際、そんな日々は、刹那でしかない。

生きる事なんて、そんな簡単なことじゃないし、

商売を継続させる事なんていうのは、

毎日が、何かとの戦いだ。

経営者は勿論、誰かに雇用されていようが、

家庭にいようが、

生き物として、誰もが生き残る為に、

必死であることは、変わりない。

今回のコロナで、

そうした、当たり前のことが

浮彫になっただけだろう。

僕は、今まで通り、

毎日に不安を抱き、

毎日の中で自分の存在を見つけ、

起こること全てを受け入れながら、

生きていくのだろう。

コロナ騒動で経済的に落ち込んだ、

この世界を生きる上での具体的な対策は、

今まで通りに、懸命に生きる。

それで、この戦いに敗れたなら、

そこまで。

ゲームセット。

それ以上でもそれ以下でもない。

今、やれる事を全てやったなら、

それ以上は、望めない。

そういうものだと思う。

もし、今までにない不安を感じている人がいるなら、

僕は、それも幸福のひとつだと思う。

生きることが、そんなに甘いものではないということを

知れただけ、幸福だと。

心より、安らかで平和な世界を渇望するが、

その未来は、なかなか訪れないが、

希望を抱き、祈ることは、

とても《人間》らしいし、

そして、人間しかできないことかもしれない。

ただ、もし人間が全滅しても、

この地球は、粛々と淡々と

何もなかったように、存在し続けることも確かだ。

我々は、その長い営みの中で、

一瞬かもしれないが、

生まれた以上は、精一杯生きていきたいものだ。

僕の人生も、少し早い終活に入っているので・・・

新天地

思えば、このブログを始めたのが

2010年の2月なので、

10年経ったことになります・・・

最初は、かなり適当な気持ちではじめ、

飽きたらやめようと思って始めたのですが、

今では、僕のライフワークであり、

とても大切な表現の一部になりました。

料理は、勿論のこと、

絵画や陶芸でも、表現しきれない部分を

【言葉】という表現ツールは補ってくれます。

僕の中で、文書というものも、

ひとつの作品だと思うのです。

・・・

さて、

来年2020年は、年明け早々からリニューアルに向けて、

色々と準備があります。

本格的に工事が始まるのが4月。

なので、通常営業は、3月いっぱいです。

5月初旬には、プレオープン。

半ばには、グランドオープンといった感じかな・・・。

2階部分は全て改装し、新しい【イデア】の空間が生まれます。

今46歳の自分にとって、これがおそらく最後の挑戦になるだろうし、

体力と精神のバランスを考えても、

ここにピークがくるように思う。

今までやりきれなかったことを

僕は、今回で全て出し切りたい。

・・・

イデアというブランドでランチ営業はしない。

ル・ミュゼというブランドでも昼は営業しない。

その変わり、別の新しいブランド【CONCEPT-C】を遂にオープンさせる。

“遂に”・・・というのは、どういう意味かというと、

このレストランのコンセプトを考えてたのは、

もう、8年ほど前。

何が新しいかというと、レストランの名前の中に、

【コンセプト】という言葉が使われている事。

レストランのコンセプトは何ですか?・・・

と・・訊かれたら、

コンセプトは・・【C】です。

と・・応えます。

それがまさに店名である【コンセプト“Cセー”】

全てのコンセプトは、【セー】から始まる。

チェンジ

チャレンジ

クロス

クリュ

カレッジ

コーポラティヴ

クリエイション

コミュニケイション

コーディネイト

カルチャー

カンパニー

キュイジーヌ(料理)

キュイジニエ(料理人)

シェフ

キャピタリズ

コンサルタント

コピー

カフェ

カレー

クリニック

コンシューマー

チーズ

コントラスト

コンプレックス

チャレンジ

ショコラ

コラボレーション

コネクション

コレクション

シャンパーニュ

シャンピニョン

セップ・・・・・・etc

まさに変幻自在。

次世代型ガストロノミーの在り方を

僕は、模索し、

常に新しい時代の中にそれを反映させていく。

イデアとの対比として、

時代のトレンドを創っていきたい。

まさに、それは、

料理人(Cuisinier)の

チャレンジ(Challenge)であり、

クリエイション(Creation)である。